2 《中学歴史(社会)》幕末2つの対外方針が、どう新しい時代につながるのか:尊王攘夷とは

江戸時代激動の幕末編
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前回とうとうペリーが来日した。

ペリーとハリスによって結ばれた

日米和親条約

日米修好通商条約

の内容はとても大切だ。

それも大事であるが、システマティック社会科的に大切なのが、

以下の2点。

朝廷と大名の発言力が増し、幕府の権威が落ちた。

朝廷は外国人キライ

 幕府は外国人と仲良く

というスタンスが、鮮明となった

ということだ。

今までなら、

「幕府しか勝たん」状態

だったのだが、

他の大名もモノをいうようになってきた。

するとどうだろう。

<span class="fz-20px"><strong>高杉晋作</strong></span>
高杉晋作

俺たちは、外国人なんかと仲良くしてたまるか!

幕府の方針には反対だ!

という藩も出てくるってことだ。

外国人と仲良くしたくない人はどうなるかというと…

必然的に

じゃ、俺たちは

天皇にお願いすればいいんだな

とつながるのである。

これが、天皇派(尊王派)と外国人やっつけ派(攘夷派)という意味で

尊皇攘夷派

という。てことで、勢力図はこんな風になるのだ

なお、尊王攘夷派でカゲキな藩は次の藩だ。

1 水戸藩

幕府って、天皇に征夷大将軍に任命してもらってるから

エラいんだよ(水戸黄門談)

なので、天皇を無視した幕府はよくないという考えらしい。

2 薩摩藩(鹿児島県)の一部の人

※藩のお偉いさんは中間派なのだが

 薩摩藩の事情は複雑なんで、こんなぐらいにしておく

 いずれ、攘夷をするってことだけ知っておいて。

といったところだ。

3 長州藩(山口県)

木戸孝允    高杉晋作

で、今回は特に尊王攘夷派の動きをもとに、

それがなぜ新しい時代へとつながるのか、

検証していきたい。

とはいえ、まず先手を打ったのは井伊直弼

<span class="fz-20px"><strong>井伊直弼</strong></span>
井伊直弼

将軍後継ぎ問題と外国対策について、

幕府の方針に文句を言っているやつがいるらしいな。

処罰してやる。

文句を言っていた人はこの人たち。

この人はこの人でお弟子さんをたくさんもっている長州藩士

伊藤博文もその1人だ。

しかし如何せんやることが過激だったようだ。

あと、水戸藩の家老たちもやられた

ろうやにいれられてしまう。

これを安政の大獄っていう。

異国船打払令に文句を言った高野長英、渡辺崋山

 処罰された「蛮社の獄」と混乱しないこと。

さて、これからが尊王攘夷派のターン

1 水戸藩

なんせ尊皇攘夷という考えの発祥地がここだとの話がある。

もちろん、安政の大獄に対して、

この恨み、晴らさでおくべきか!

となる。藩にめいわくかけれないので、元水戸藩士となってる。

で、とうとう1860年、

桜田門で井伊直弼の暗殺に成功。

これが桜田門外の変である。

今、桜田門というと、警視庁なのだが

これにて幕府の地位が激落ちくんな上、

幕府と朝廷の関係もギズギスしてきた

※ここで一度幕府にターンが移る

ここで、幕府はある手を打ってきた。

①②の問題を一気に解決する方法がこれ。

よし、思い切って、天皇の妹さんに

将軍様の嫁になってもらおう。

今まで天皇の嫁になることがあっても、

天皇家の人が一般人の嫁になるなんてありえなかった。

公家と武家が歩みをともにしたってことで、

公武合体策と表記されている。

尊王派にも穏便派はいるし、

幕府派にも柔軟派はいるから、なんとかなった。

ただ、尊王派の過激派は、ますますイラつくわけだ。

2 薩摩藩

藩のお偉いさんは、公武合体派だった。

ちょうど朝廷と幕府の橋渡し役をやっていたのだ。が…

薩摩藩は、けっこう尊攘夷のカゲキ派もいるのだ。

そして、やっちまった…

大名行列を馬で横切った外国人を切りつけてしまった。

しかも幸か不幸か、当時最強国イギリス人だ。

これが神奈川県生麦村で起こしたので、

通称生麦事件

次はイギリスのターン

やられたらやり返す。倍返しだ!

これが薩英戦争(1863年)だ。

ここで失敗して得たことがある。それが次の2つ。

①攘夷はムリだとわかった。

②これをきっかけにイギリスと仲良くなった。

イギリスと仲良くなるとどうなるか。

今後世界最新の武器が手に入るってことだ

そして、この人たちがとうとう台頭してくるのだ。

3 長州藩

この藩が、実質尊王攘夷の1番手

攘夷をしたくて仕方ない。

なんせ、自分の海をチョロチョロ船で

通られるわけだからなあ。

プライドが許さない。

でも幕府に許可を得ようとしても断られる

だから、天皇に攘夷を認めてもらおうとするわけだ。

で、とうとう1863年

砲撃実行。

ここで舞台は、源平の戦い以来、再登場の壇ノ浦古戦場。

ここに放題があったわけだ。

ここなら船に対しても大砲が届きそうでしょ?

で、結果は…

もちろん残念賞。

しかも、少し前に長州藩はふんだりけったりのことが起こっている。

攘夷をお願いに京都に行ってるのだが、

これがしつこすぎて、

公武合体派に撃退されている

公武合体派ということは…

薩摩藩だ

とうとう幕府のターン。

長州藩をやっつけろ!

これが長州征伐だ(1回目)

ここで命令されるのが

やっぱり薩摩藩だ

ということで、長州藩は結果こんな風になった。

①攘夷はムリだとわかった。

②これをきっかけに薩摩藩が天敵となった。

長州藩も、薩摩藩も、

攘夷はムリだということを身にしみてわかった

数少ない藩である。

でも、今はとても仲が悪い。

ここで登場するのが

あの人なのだ。

この話は最終回にとっておこう。

今回のまとめ

2つの対外方針が、なぜ新しい時代につながるのか

端的にシステマティックまとめとする

できごと

安政の大獄の仕返しに、

 桜田門外の変が起きた。

 (井伊直弼暗殺)

薩摩藩士が生麦事件を起こした。

 →薩英戦争

長州藩が外国船を砲撃した。

 →下関砲台を占領された。

 長州藩は、薩摩藩に痛い目にあわされている。

結果と影響

①幕府の権威が落ちた結果、

 尊王攘夷派の動きが活発になった。

②混乱を防ごうと、公武合体策も行われた

長州藩も薩摩藩も攘夷を決行した結果、

 攘夷は不可能だということを悟った

 だが、この2藩は仲が悪い。

この2藩に未来を賭けようする人が現れ

さあ、激動の幕末最終回!

といいたいところだが、

次回は開国後の幕府の貿易政策の側面から、

このことについて触れていこうと思います。