4 《中学歴史(社会)》なぜ元寇は日本を揺るがす大事件だったのか:北条時宗

鎌倉時代
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幕府の執権となった北条氏。

どんどん権力を高め、北条氏の専制的な政治が確立していった。

そんなあるとき、

日蓮さんが、こんなことを幕府や世の中に訴えていた。

外国が日本に攻めてくる!

(救ってくれるのが法華経だ)

ま、もちろん幕府がこんなものを

真剣にとりつくはずがない。

しかしながら…

そのときは突然訪れる…

がやってくるのだ

時は流れ、

北条家執権は8代目

北条時宗

の代になっている。

っていう国は、モンゴル人が、
今でいう中国の部分をはじめ、大範囲にわたって支配した国ね。

モンゴルというと、今では

この人とか

この人が思い浮かぶだろうか。

下に出てくる方とお顔の系統がよく似てるでしょ?


フビライ・ハンいわく、

がパッと思い浮かぶだろうか。

今後は

たがいに訪問し

友好を結ぼう

ではないか。


武力は使いたくはないで、よく考えてほしい。

わかってるよな、あ?

という状況である。

かという北条時宗にとっても

<span class="fz-20px"><strong>北条時宗</strong></span>
北条時宗

なんだこいつ、ほっておけ。

という状況である。
で、その手紙を無視したので、とうとう元がやってくるんだ。

そもそも元ってどんな国か。

元はチンギス・ハンが作った

モンゴル帝国
「スーホの白い馬」の世界のような国から来るわけ。
本当は当然、騎馬民族ね。

やってきたのは、

元から近い福岡県博多湾だ。


そこに、御家人のみんなが、

義理とごほうび目当てでそこまで来てくれてるの。
で、あいもかわらず

やあやあ、われこそは、肥後国の竹崎季長だ。いざ勝負!

と戦いにいどむわけだ。が、

(なんかいってるが、なんやろな。討ってしまえ)

という状況である。

ここで例の写真

「蒙古襲来絵詞」

という資料を見てみて。
そんなことしてるうちに、囲まれてフルボッコにされるわなあ。
それが集団戦法

あと、火器「てつはう」を使った

(後世の人が書き足したって説もあるが…)
この2点だけ指摘できれば、基本それでよし。

ラッキーなのは、

本来騎馬民族なのが強みなのに、

船で来たので、馬がいないの。

※なお、蒙古襲来絵詞って、

「オレがんばったよ、ごほうびちょうだい」

<span class="fz-20px"><strong>竹崎季長</strong></span>
竹崎季長

オレがんばったよ。

こんだけ活躍したんで、

ご褒美ちょうだい!

って戦った証拠として作った、長い長い巻物なのよ。見てるのは、そのほんの一部。

こののち、日本もタイマン勝負(一騎打ち)しなくなっていく時代がおとずれる。

結局、うちわもめがあったり、どちらも海があれたため、帰ってくれたようだ。
文永の役(1274年) 弘安の役(1281年)
二つあわせて元寇

文永の役の後にあわてて作ったのが、石塁

大切なのは、元寇後の展開である…

幕府って、御恩がもらえるから、御家人が奉公してたんでしょ?
でも、今回新しい土地うばってないのよ…
あげる土地もない…
みんな借金してまで働いてくれた。
さらに、前記したが、当時は「分割相続」のため、どんどん代を重ねるごとに1人あたりの土地収入も減っている

苦しまぎれにやったことは
御家人の借金をオフィシャルが「なかったこと」にする
いわゆる徳政令を出すしかなかった
(出したのは9代執権だが)
貸してくれた人は

あーあ、二度と御家人なんかに金を貸すもんか!!

となってしまった。

これにて、
「御恩と奉公の主従関係」がくずれることとなる。

北条時宗のやったことと影響を以下にまとめると

なぜ元寇は日本を揺るがす大事件だったのか(北条時宗編)

☆経緯

文永の役(1274年)弘安の役(1281年)
 福岡県で元(フビライ・ハン)と戦った
 ・集団戦法と火器の使用が日本の戦いに影響
 ・博多湾岸に防壁をつくった
※フビライに日本に行きたくなるようなことを
 吹き込んだのがマルコポーロ

☆何が日本を揺るがしたのか
①結果、鎌倉幕府のシステムでは、土地がないとご褒美がもらえないことが分かった。

 →御恩と奉公の主従関係がくずれた
 のちに(永仁の)徳政令が出された。

②一騎打ち主体の戦術から、集団戦法へと切り替わり、

 日本の戦い方も変化していく。