2《中学歴史(社会)》弥生時代の物的証拠から何がわかるのか:新石器時代2

日本の黎明期編
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前回、とうとう日本の物的証拠がではじめた時代の学習をした。

今回は、物的証拠2である。

ま、

通称弥生時代って、

もっというと

「物的証拠のみの時代」

と、次回に回そうと思う、

「字として残ってる時代」

とに分けて考えると、スッキリする。

中学生は、この概念がないので、

何が弥生時代なのかこんがらがる。

今回は、

「物証のみの世界」

である。

では、物証をみていこう。

物証発見場所:登呂遺跡など(静岡駅からチャリで15分)

道具としては、銅製の矛や鏡、石でできた包丁、鉄を使った農具等が発見されている。

また、登呂遺跡などからは、水田跡や高床倉庫も見つかっているのだ。

東京書籍版では、登呂遺跡の扱いが残念な状態だが、

帝国書籍版では、ちゃんと扱われている(小さいが…)

では、

この人たちは

どんな生活を

してたのでしょう。

てことは、

米作りを

やってたって

ことやん!

もちろん、そんなとこ。

で、どうしてそんなに生活が変わったのかってことである。

秘密はここにある。

いっしょに発掘される人骨ね。

これを現代技術で顔を復元すると、こうなったわけだ。

一重、比較的平べったい顔

さらには酒に弱く、カサカサ耳垢なのも判明している。

それがどうしたかというと…

縄文時代の骨格と違うってことだ。

ちなみに縄文人は…

二重、比較的ほりが深い顔

酒にも強く、ベトベト耳垢らしい。

もちろん、進化したわけではない。

てコトは…

別の国から

やってきたわけ?

という解釈が現代の解釈。

朝鮮半島からお引っ越ししてきた人たちが、

お引っ越しと同時に

いろんな文化を持ち込んだと考えられている。

時期は、紀元前3・4世紀頃からスタートという説が有力

で、この人たちは、これまでと違った土器も使ってたの。

縄文土器より、うすくても安心の丈夫さ

東京都文京区の弥生町で最初に発見されたので、

弥生土器と名付けられた。

そのまま時代も弥生時代と名付けられたわけだ。

ネーミングセンスなんてそんなもん。

じゃ、

弥生時代と

縄文時代の

違いは?

やっぱし

狩りじゃなくて

稲作をはじめたこと

それなら、

稲作が始まって

どんな習慣が

生まれたの?

ここがポイント

①お祭りをして、豊作をおいのりした

②みんなで協力して農業を行った

③農業しやすい場所に人気が集まる

注意:おうちはやっぱりたて穴住居

おいのりするのに使ったのが、いっしょに伝わった青銅器

ここで、世界と日本の大きな違いに注意!

本来、現在の中国を例にとっても、

青銅器は紀元前3000年ごろ

鉄器は紀元前4世紀ごろで、発明された時代が全然違う。

ところが、日本は島国。

縄文はどちらの技術を知らんかったわけ。

そして、一気に大陸移動してきた住人によって、

どっちも同時期に伝わったのだ。

そりゃ、青銅器しかなかった時代なら青銅器大活躍だったが、鉄も伝わった。

てことは、こういうこと。

万一PS4PS5が同時発売したら、

よほどの人じゃないと

あえてPS4を使うはずなかろう?

てことで、青銅器は剣だろうが、実戦投入されるわけではない

なので、お祭りのお供え物になるわけだ。

今回の内容はここまで。

次回は、そんで

農業が発達した結果、どのような結果が生じたのか

ということである。

それを物証とともに見ていきましょう。

弥生時代の物的証拠から何がわかるのか

☆年代(紀元前4or3世紀~)

弥生時代の遺物

 土器…弥生土器

 道具…石包丁(農具)

    青銅器グッズ(銅鐸銅矛銅鏡

    鉄器グッズ(鉄のついたくわ、剣)

☆登呂遺跡等から

 水田跡 高床倉庫

 (おうちはたて穴住居

☆わかる生活

 朝鮮半島から稲作が伝わった

 青銅器・鉄器が同時期に伝わった