2 《中学歴史(社会)》鎌倉幕府はどういう経緯で滅亡するのか:後醍醐天皇の動静表

室町時代
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元寇によって、弱点を露呈してしまった鎌倉幕府。

苦しまぎれの永仁の徳政令により、なおさら窮地に追い込まれていく。

とはいえ、やはり幕府は幕府。かんたんに倒れるわけではない。

でも、チャンスがあれば、自分が世界の中心になりたいのが天皇。

野望が強かったのが、この人、

後醍醐天皇だ。

何度も幕府をたおそうとこころみるが、なかなか成功しない…

そんな中、幕府の人間でない人たちも力をつけてきたこともあり、

仲間が増える。仲間となったのがこの人たち

楠木正成は、ひとあし先に仲間に。

困った幕府は、京都で起こっている反乱をしずめるため、この人をおくった。

ところが、この足利尊氏

幕府を裏切り、そのまま六波羅探題をほろぼしちゃう。

しまいには、この人も裏切り、鎌倉に攻めてきた。

山と海に囲まれた鎌倉、どこから攻めるか迷ったあげく、

家宝の刀をあげるから、海の潮よ、ひいてくれ

と、サザンオールスターズファンなら聞いて喜ぶ

「稲村ヶ崎」から刀を投げ入れた。すると

なんということでしょう。

潮が引いて行くではありませんか。(という伝説があり)

で、執権をたおし、鎌倉幕府をほろぼすこととなった(1333年)

   さようなら、鎌倉…

晴れて、自分のやりたいようにできるようになったのが

もちろん後醍醐天皇だ。

で、はじめた政治を

建武の新政(1334年)とよぶ。

この政治の結果をしめしているのが、

いわゆる

「四条河原の落書」なのである。

何がいいたい資料なのか、ややこしいが、

細かいことは気にするな、それ!

要は、後醍醐天皇の政治のせいで、京都はぐちゃぐちゃになったってことだ。

後醍醐天皇

 ①みんなによびかけ、1333年に鎌倉幕府をほろぼさせる

  よびかけに応じたのは、楠木正成足利尊氏新田義貞

  (とどめをさしたのは、新田義貞)

 ②1334年から、自己中な政治をはじめた。(建武の新政)←これいつも正答率低いので注意

なお、1333年~1338年って、特に○○時代という呼び名は、

何もあてはまらない。

いっぱい書いたけど、大事なのはこれだけ。

※ちょっと前から、実は天皇家もいろいろなことはあったようだ。

なんで、ぐちゃぐちゃになったのか、そしてどうなるかは、次回へ続く。