2 《中学歴史(社会)》聖徳太子と推古天皇は、どのように天皇中心の国にする必要があったのか

飛鳥・奈良時代
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小学校からずっと、

「聖徳太子は、天皇中心の国づくりをした」

って習うよね。

ここで、みんなが?となる(はず)のは、
唐突に「天皇中心の国作り」というキーワードが出てきて、
意味がわからないことだ。

そこでこう考えておきましょう。
「天皇中心の国作りをした」ということは、教科書には書いていないけど、
それまでは

「天皇中心の国ではなかった」

ということである。

そうでしょ?たとえば

学校で「ツーブロックの髪型禁止!」

って校則があるということは、

「ツーブロックが世の中ではやっていた」

ということだろう?(そんな私もビジネスツーブロックだ)

ここから先、この捉え方をすると、歴史がよく見えるから覚えておいて!

○○を禁止する ということは…

それまでは、それが行われていた流行していたということ

話をもどそう

で、種明かしをすると、それまでの日本は、こんな感じなのだ。

・天皇と豪族とよばれる人々が話し合いをして、政治を進めていた。
・しかし豪族には身分がある上に、それは親子代々引き継がれるものであり、
 例えば鈴木さんが大臣という位だったら、代々鈴木さんしか大臣になれなかった。

 つまり、蘇我さんしかいい役職につけなかった。
・豪族は、権力争いをしていて、
 実際に最高権力者となっていたのが蘇我さんなのである。
・当時最高の家柄が蘇我さんであり、蘇我さんの権力が強くなりすぎて、困っている。


という時代であった。

そこで改めて登場するのが

聖徳太子

なのである。

蘇我さんは女性の推古天皇を天皇として

自分が権力を振るう予定であったが、

推古天皇が

聖徳太子を摂政とさせることで、

これをブロックしたわけ。

だからこそ、蘇我さんの権力を封じる必要があったのだ。

そこで考えたわけだ。

どうすれば、この蘇我さん一族以外の人を政治参加させられるのか…

そして、こんな作戦に出た。

もっと才能のある人をいっぱい集めたいんだ。

そうすると、今までの制度じゃだめでしょ?

家柄関係なく、才能のある人を雇いたいな

ということだ。

これが世に言う

冠位十二階(603年)

なのである。

これだけじゃ、不安なので、きまりも作る。

重要なのは、やっぱりここ

・天皇の命令は絶対だと、憲法を定める

てこと。これが、

十七条の憲法(604年)だ。

教科書では、なぜか

聖徳太子は蘇我馬子と協力して天皇中心の国作りをした

っていうけど、よくよく考えると変でしょ?

だって、やってること全部、

蘇我氏にとって迷惑なことばっかりやん。

でも、

今回の学習を蘇我氏の力を封じるためって考えると、

意味がつながるでしょ。


結果「天皇中心の国作りをした」といわれるわけである。

せっかくなので、次の写真を見てみましょう。

これ、法隆寺の「中門」ね。

この門って、他の寺ではありえない門だといわれる。

せっかくなので、東大寺南大門と比べてみよう。

おわかりいただけただろうか。

それは、

「門なのに、真ん中に柱があって、通りにくい」

ということ。

一度法隆寺が火事になったあとに建てられたといわれるが、

これは、わざと通れないようにしているという説があるのだ。

誰を?

それは

聖徳太子一族の怨霊

だという。

それだけ、

蘇我一族と聖徳太子はもめてた可能性があるのだ。

聖徳太子の息子も蘇我氏に殺害されたといわれる…

さて、本題にもどろう。

で、やったことを改めてまとめると…

聖徳太子と推古天皇は、どのように天皇中心の国にする必要があったのか

背景

①元来、この当時、天皇と豪族のみんなで話し合い、ものごとをすすめる国だった。

②豪族は、家柄によって、つける仕事が決まっていた。

③豪族同士の権力争いの末、蘇我氏が天皇をしのぐ力を持ってしまっていた。

④自分の都合のいいように、女性の推古天皇をたてた。

推古天皇の一手

○おいの聖徳太子を摂政にするのを条件とした。

聖徳太子の打った作戦

冠位十二階(603年)を制定し、家柄に関係なく才能のある者をやとい、蘇我氏の官職独占を防ごうとした
十七条の憲法(604年)を制定し、天皇中心だと訴えた。
遣隋使として小野妹子を隋に派遣し、制度を学ぼうとした。
法隆寺をつくった → 飛鳥文化とよばれる

ところが、聖徳太子の死後、悪夢が再び訪れる…

次へつづく