2 《中学歴史(社会)》明治時代になり、統治システムはどう変化したのか

明治時代(1)明治の新システム構築編
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いよいよ本題に入っていきましょう。

外国に負けない強い国をつくる

ためには、

幕府をたおし、新しい国をつくらなければならない

となり、新時代を迎えたのであった。

で、幕府と何がちがうのかってことだ。

そもそも、

誰が

どのように政治をするのかってことだ。

どのようにの方針が、いちおうコレ

五箇条の御誓文

一 広く会議を興し、万機公論に決すべし

一 上下心を一(いつ)にして盛ニ経綸(けいりん)を行うべし

一 官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す

一 旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の行動に基くべし

一 智識を世界に求め、大に皇基を振起すべし 

どんな政治にするか、わかっただろうか…

非常に端的にまとめると、

幕府の独裁みたいなやつじゃなく、

天皇中心に、みんなで決めるんだ。

ということを言っている。

では、実際の組織を見てみよう。

どこかでこの仕組み、聞き覚えがないだろうか。

要は、

奈良・平安時代の太政官制度に戻ったってことだ。

違うのは、その組織に入っている人ってこと。

この組織に入ったのは、倒幕に貢献した公家

摩藩・州藩・佐藩・前藩(佐賀県)

出身の者だったってこと。

ということは、実際には

幕府の独裁みたいなやつじゃなく、

天皇中心に、おれたち薩長土肥

出身者の意見を聞いて決めるんだ。

これが正解。

これを藩閥政府(東書)藩閥政治(帝国書院)とよんでいる。

※今後も「藩閥=特に薩長出身者」とおもえばよい。

だからこそ、他の藩は可及的速やかに排除しなければならない。

なお、天皇は、

である。住む京都から江戸へおひっこし。

江戸も、「京都」より東にある京なので、「東京」となった。

さて、1867年、大政奉還自体は行われたものの、

それは、幕府が政権を天皇に返しただけ。

日本にたくさんある藩はそのまま残っていて

全く以前と変わっていない

藩を排除したいが、

急激な変化は、さすがに反発が大きいと思われる。

なので、1クッションおいた。

俺たち、土地(図)と人民(戸)は天皇にお返しするよ。

みんなも返しなよ。

それも、次の条件付きである。

土地と人民は返しても、知藩事となり

その場所は今までどおり

支配させてもらえるから大丈夫!

それならいいかと、

みんなこの動きに合わせた。

これが版籍奉還(1869年)である。

つまりこれでは、以前の体制とほぼ変わっていない。

そこでなんとか旧藩主からすべてを取り上げるために、

なんとか旧藩主を追い出さなければならない。

ここで使ったのが、2年間で集めた天皇直属の兵隊

これを背景に

もう、藩という組織をなくすよ

これからはっていうのを作り、

そこのトップは新政府が選ぶよ!

反対したらどうなるか、わかってるよな…

ということを断行した。

これが廃藩置県(1871年)だ。

廃藩置県の大事なことは、呼び名が藩から県に変わったってことではない。

旧藩主を完全に日本の政治から排除し、

中央から自分たちの息のかかった者に全国を支配させた

ということである。

中央から国司をハケンし、

中央集権化をはかった飛鳥時代と同じ手法である。

これにて、

天皇中心の

薩長土肥公家による

中央集権国家

の完成なのである。

次回は、

この藩閥政府が

どのように強い軍隊を作るのか

ということである。

明治時代になり、統治システムはどう変化したのか

○行ったこと

五箇条の御誓文(1868年)にて、今後の方針を出す。

②奈良時代の太政官制度に戻し、

 薩長土肥出身者が組織に入る

版籍奉還をする(1869年)

廃藩置県を断行する(1871年)

○結果(意義)

天皇中心の藩閥政府が政治を動かすこととなった。

②廃藩置県により、日本が再統一され、中央集権国家となった

ちなみに

西郷さんって、

本当はこんな顔じゃないらしいね。

西郷さんは、写真がキライで、

本当はどんな顔か、実像がのこっていない。

で、仕方なく、あの顔は、

弟+いとこ)÷2」

でできたらしいね。