本編に話を戻そう
これほどすごいことをやり遂げた源頼朝である。
さぞかし源氏は安泰だと思いきや…
源頼朝、落馬で死亡?
というように、いわくつきの死に方を迎えることとなる…
さらに、息子たちも変な最期をむかえ、
源氏は、なんとたった3代で跡継ぎがいなくなってしまうのである。
そこで結局実権を握ったのが、
頼朝の嫁さんの実家であり、執権という役職についた
北条さん
なのである
さて、ここで改めて日本全体を見てみよう。
幕府という組織ができてしまって困っている人がいるのは
お気づきだろうか。
一番いやな思いをしているのは、
もちろん本来なら
一番権力をもっている
天皇(上皇)である。
自分のおじいちゃんが、しぶしぶ源頼朝のいうとおりにしたとはいえ、
おもしろくないのが後鳥羽上皇だった
でも、源さんには恩もあるし、やっぱり逆らえない…
そこにチャンス到来!
なんと源氏が3代で滅びてしまうんだ
そして、
初代執権の時代は
鎌倉13人殿が
みんなで話し合っていろいろ決めてたけど、
2代目の時には、すこしいざこざも始まる…
そんな中、
とうとう上皇が動きに出たのだ。
北条義時(小○旬)をやっつけろー!
となったのである。
(中学生は、北条義時を覚えなくていいよ)
御家人にとっても、北条に義理はそこまでない…
ここで一肌脱いだのが、かの北条政子である。
そして、あの有名な演説が入るわけである。
みながいただいた恩は
山よりも高く、
海よりも深いものです
御家人も、源氏に恩はあっても北条さんにはあまりなかったが、
しかしながら、ここで生きてくるのが、
新しい組織を作ったおかげで、土地を認めてくれた
という事実である
ここで朝廷に味方すると、これまでの努力が水の泡…
結局、後鳥羽上皇に味方することはなかったわけだ
これが承久の乱である。
後鳥羽上皇はけっきょく隠岐に流されることとなる。
(でも、後鳥羽上皇が「新古今和歌集」を作らせたのも覚えておいて)
あと、そのすこし後、
3代執権北条泰時が御成敗式目を作ったのもおぼえておこおう
間違えやすいのが、江戸時代に出てくる公事方御定書なので注意
どちらも裁判の基準みたいなもんだからややこしい
御成敗式目は、あくまで御家人同士の土地問題
「AさんがBさんの土地を20年借りパクしてたら、Aさんのもの」
みたいな感じ
※公事方御定書は刑罰の基準だ
「10両以上盗んだら、死刑だ」とかね
というわけで、
北条政子のころのできごと、そして承久の乱の影響をまとめると
北条政子の演説は、どうして必要であったのか+泰時
☆背景
①源氏の滅亡。
②2代執権北条義時になり、鎌倉13人の中でもいざこざ。
③ずっと後鳥羽上皇が、権力を取り戻すチャンスをうかがっていた。
☆動き
①承久の乱(1221年)で、
後鳥羽上皇をやっつけるのにひとやくかった
(後鳥羽上皇→新古今和歌集〕
②結果、
○西日本にも幕府の勢力が及ぶこととなった
○六波羅探題をおいて、朝廷を監視させた。
※六波羅っていうのは京都の地名
「六波羅蜜」って6つの仏教で守るべきものがあるんだが、
その名をとった六波羅蜜寺ってお寺があるあたり
なお、六波羅蜜寺には、教科書にのってる
平清盛の像があるよ
北条泰時
御成敗式目(1232年)
なお、アイキャッチに挙げた場所は2点
①北条政子ゆかりの寺:安養院
②北条泰時が作った朝夷奈切通
いわゆる鎌倉からの抜け道