1 《中学歴史(社会)》大正デモクラシーで、めざしたものは何か:吉野作造をさぐる

大正時代(2)大正時代の自由民権運動
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これまで

「大正時代(1)第一次世界大戦とどう関わるのか」編では、

年代は一気に1921年のワシントン会議まで学習した。

ここで、1度立ち返り、

今回から、

「大正時代(2)大正時代の自由民権運動」

へと入ろうと思います。

なので、例の如く、前回までのパラレルワールド国内編になるので、

時代はさかのぼり、第一次世界大戦前

1910年代前半の日本まで

1度話を戻すことになります。

時代は明治から大正に変われど、時代は続いている話はした。

なので、今回の話は、

明治時代(3)自由民権運動編

のつづきなのである。

前回の自由民権運動にて、とうとう2つのことを勝ち取った。

自由民権運動の成果

①憲法ができた。

 →立憲制度国家になった

②国会ができた。

☆課題

○選挙権もってる人は、100人に1人くらい。

とはいえ、当初の計画は達成し、

中学校の教科書の中では、それなりに生活を送っていた…

時に、政治は大きく2つの勢力で

時に仲良く、時にバトりながら政権運営していた。

時の政治勢力

①藩閥から飛び出した伊藤と、旧自由党とがくっついてできた、立憲政友会

 ※藩閥の考えでもなく、旧自由党の考えでもないような状態ではあるが…

②やっぱり藩閥で政治を行おうとする藩閥政府派

とはいえ、総理大臣自体は、藩閥出身者からなる

元老って組織が選んでいるのだが…

そして、ある事件が起こったことにより、大きく政治が動いていくこととなる。

それが、これ。

上原さん
上原さん

立憲政友会め…

陸軍増強してくれないなら、

オレ大臣やーめた。

じゃ、オレたちも

新しい大臣

だれもやらんもんね!

ていう、軍部の行動だ。

もちろんあおってたのが、藩閥の人間だ。

このせいで、大臣がいなくなって、

必然的に、政友会内閣がふっとんじゃったんだ

で、できた内閣が、やっぱり藩閥内閣(第三次桂太郎内閣)

で、この行動を、世間は許さなかった。

こんな暴挙、憲法違反だ!

藩閥をやっつけろ!

とうことだ。

憲法を守れってことで、

護憲運動第一次護憲運動(1912年)]ってよばれる。

これを機に、

世間が政治を動かしていく風潮が生まれていくのだ。

ここで、そもそもその民衆の動きが、

何をめざしていたのか、

この人の考えから読み取ってみよう。

ちなみに、本当は民主主義を達成したかったはずだが、

民主主義って言うと、

天皇を倒すことになってしまい、

一発アウトを食らうので、

わざわざ民本主義(1916年)って言っている。

でも、やりたいことは、民主主義だ。

この風潮を、民主主義を英語にして、

大正デモクラシー

って呼んでいる。

で、その民主主義を達成するには、

2つのキーワードが必要なる

大正デモクラシーの大目標

納税額に関係なくみんな選挙に参加できるようになればいい。

 普通選挙

②選挙で選ばれた人に、内閣を作ってほしい。

 政党内閣

ということである。

どのようにして、この2つを勝ち取っていくか、

そして、その他の民主主義への動きについては、

次回から改めて学習しましょう。

大正デモクラシーで、めざしたものは何か

☆背景

 立憲政友会の政党勢力と、藩閥政府勢力との争い

直接的きっかけ(の1つ)

 ○藩閥と軍部が横暴を働き、立憲政友会政府を倒してしまった。

☆おきたこと

 ①「藩閥を倒し、憲法を守れ!」と運動がおきた。

  第一次護憲運動

 吉野作造民本主義を主張した。

なお、教科書には、美濃部達吉の「天皇機関説」も紹介されている。

主権は国民にあり。

天皇は、主権者じゃなく、

最高機関ってだけだぜ。

☆影響

 大正デモクラシーの風潮を生んだ。

☆大正デモクラシーの目標

 普通選挙を実現する。

 政党内閣を作る。