5 《中学歴史(社会)》徳川家康は、どのように天下を手中にしたのか:決戦関ヶ原の戦い

安土桃山時代
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とうとう1598年、

豊臣秀吉はこの世を去った。

世継ぎは豊臣秀頼5歳…

これでいいのか豊臣家…

そんな空気が流れる中、

朝鮮出兵も免除され、力を蓄えた男がいる。

本当の友とは日頃疎遠でも

難儀の時にこそひょっこり現れ

救いの手を差しのべるものよ

徳川家康である。

他の大名も、勝ち馬に乗った方がいいという人も多くなった。

もちろん、その動きに

「まった」をかけた男もいる。

命をかけて豊臣の家を守ろう

と決意した石田三成であった。

そして、とうとうこのときがきた。

1600年、天下分け目の決戦

関ヶ原の戦いである。

布陣を見ると、

ドイツ軍人
ドイツ軍人

これは、西軍(三成軍)の勝利だな。

と思わせる布陣だった。

だがしかし、家康の方が1枚上手であった。

その陣に裏切り者がいるんでは、

三成に勝ち目はない。

かくして、この戦いに勝利し、

1603年徳川家康は

征夷大将軍になるのであった。

江戸幕府スタート

ただ、まだ秀頼は大阪城に生存している…

どうにか、豊臣家をつぶせないだろうか…

と思うのが、徳川の本音。

と、そのとき、豊臣家が再建したお寺に、

こんな字が書かれた鐘がつくられた。

は?オレの名前を二つに割って、

豊臣が栄えるだと?

この恨み晴らさでおくべきかー。

と、スーパークレーマーないちゃもんをつけた

攻める理由があれば、何でもいい。

かくして、家康は1614年・1615年の2度

大阪城を攻めることとなり、

豊臣家を滅びしたのだ。大坂の陣

これにて、長い戦乱が本当に終わり、

天下太平の世となったのだ。

い…いやあ怖い…ははは

怖いから そう思う前に

夢中で飛び出して

しまいましたわい

日光東照宮