※アイキャッチ画像は静岡県下田市
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今回の章は、これまでの流れでいきなり本題に入ろうと思う。
これまでずっと、江戸幕府の話から離れ、
「YOU(ペリー)はどうして日本へ?」
について長々と学習してきた。
そして、今回とうとうこの人が来る。
改めて紹介しよう。
アメリカ東インド艦隊司令長官、マシュー・ペリーである。
この人の登場で、一体何が変わったのだろう。
システマティック社会科的には、そこがポイント。
時は1853年、天保の改革から約10年後の話である。
今まで外国人インバウンドの話をしたが、
どれも比較的江戸から遠いところであった。
しかし、今回来たのはここだ。
海軍カレーで有名な、神奈川県横須賀市の一部だ。江戸も目と鼻の先。
今なら横須賀線で、たった1時間20分の時間距離だ。
で、こんな手紙をもってきた。
お願いしておきながら、
ペリーが乗ってきたのは軍艦サスケハナ号だ。
もちろんナンパって、漢字で書くと、難破、
つまり船が座礁したとき助けてねってこと。
戦おうとも思った人もいるかもしれないが、
サスケハナ号、全長78m。
日本の大きな商船でも25mほどだ…
勝ち目がないのはうすうす分かっている。
できる手段は…
これから、天皇やほかの大名のみんなと
相談するから、まっててね。
時間稼ぎだ
で、けっきょく翌年にはきちゃう。
ここでとうとう条約を結ぶのだ。
いきなり内容からいこう。
第2条
アメリカ船が、まきと水、食料、石炭をほしいときは、
下田、函館の2港に限って入港を許可する。
たくさんあるが、とりあえずこの条文がポイント。
さて、ペリーが持ってきた手紙のお願いを聞いたであろうか。
アメリカのお願いは
①友好を深める。
②通商をする。
③まきや水を分けてほしい。
ってところだった。どうだろう?
「②の通商をする。」は、果たせなかったわけだ。
①友好を深めて、まきや水をもらえるようにしたから、
日米和親条約(1854年)なのだ。
つまり、仲良くなって、物資をもらうというだけだ。
しかもうまかったのは、
下田(静岡県)
函館(北海道)
という
決して便利そうでない場所に限ってということ。
ここは日本がうまかった。
とはいえ、これにて鎖国は終了。
ただ、まだ目的②が果たせていない…
だから、また来るのだ。
今度こそ貿易(通商)をするのだ!
ここで対峙したのが
彦根(滋賀県)藩主、大老井伊直弼だ。
あの初代ゆるキャラグランプリ「ひこにゃん」で有名なとこね。
で、とうとう今回は天皇にOKもらうことなく結んじゃった。
今回は貿易するので、
日米修好通商条約(1858年)
なのである。
ポイントだけ端的に。
○貿易できる港は最終的に5つ
函館、神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)
○日本に関税自主権がない。
○アメリカの領事裁判権を認める。
てところ。
この2つの条約、
開かれた港と場所がよく出題され、
正解率も低いので、よく確認しておきましょう。
さて、ここで、今回のテーマでありシステマティックポイント、
幕藩体制にかかわることに触れていこう。
幕藩体制が変化したポイントがこれまでにあったが、
気づいたでしょうか。
1つ目はここ
日米和親条約を結ぶ際に、
「朝廷や大名に相談した」
ということ。
その時歴史が動いた
ってやつだ。
今までなら、幕府は問答無用で決めていた。
それを相談したってことは、相対的に
幕府の権威が低下し、
他者の権威が向上した
ことをあらわしてしまっている。
さらに1つ鮮明になってしまったのが、
幕府は開国、外国人と仲良くする派
反対した朝廷は、外国人をやっつけたい派
ということに分かれてしまったということだ。
さて、次回には、この関係がどうなっていくのか、
それが幕府をどうさせるのか、追っていきましょう。
幕藩体制はどう変化したのか
1 変化の原因となるできごと
①もちろんペリー浦賀へ来航(1853年)
②日米和親条約(1854年)
③日米修好通商条約(1858年)
2 なぜそれが変化を生んだのか
①日米和親条約の際、朝廷と大名に相談した。
②日米修好通商条約の際、朝廷は拒否、
幕府(大老井伊直弼)は許可なく条約締結。
3 結果
①朝廷と大名の発言力が増し、幕府の権威が落ちた。
②朝廷は外国人キライ
幕府は外国人と仲良く
というスタンスが、鮮明となった。
ちなみに、このとき、外国を打ち払うために、
東京湾に砲台を作ったのである。
砲台があるので、その地を
「台場」
という。
「ゆりかもめ」にのっていくと、
フ○テレビがあるところだ。