2 《中学歴史(社会)》不平等条約改正にいたるまで、何が起こったのか

明治時代(4)明治の残された外交問題編
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さて、いよいよ明治時代も最終章。

今回の学習は、

不平等条約改正にいたるまで、何が起こったのか

ということだ。

この前の学習で1889年に

大日本帝国憲法ができた

という学習はしたが、

今回は、このテーマのもと、

話を1880年代前半から

1890年以降まで、

時代を前後するので、ご了承を…

これまで

不平等条約の改正に向けての

最初の作戦はこうだった。

新しい国になったので、

条約改正してください。

お願いします。

岩倉使節団大作戦だ。

しかし結果は、

やーだね。

まだまだお前たち、

文明が発達してないじゃん。

といって、多くの国に相手にされなかった。

憲法作成が必要とは気づいているが、

1880年前半には、まだできていない…

では何をしたのか。

文明が発達していると思ってもらえればいい。

<span class="fz-20px"><strong>井上馨</strong></span>
井上馨

ほら、日本って

こんなに文明が

発展したんですよ。

これが次なる作戦。

この鹿鳴館(ろくめいかん)って館で、

毎晩のように舞踏会を開き、

外国人を接待漬けにしたのだ。

このことを中心とした

欧化政策をとることによって、

文明の発達をアピールして、

条約改正を試みたのだ。

文明開化と勘違いしない

欧化政策は、条約改正のための手段と思えばOK。

しかし、これには、国内から反発が起きる。

日本は日本のよさがあるのに

なにそんな卑屈になって

猿まねしているのだ!

こんな絵まで書かれる始末…

で、国内の反発であえなく失敗…

しかしながら、

国民としても、

不平等条約をほっておけない

事件も起きている。それがこれ。

ノルマントン号事件(1886年)

和歌山県沖でイギリス船ノルマントン号が沈没。イギリス人船長は、乗客の日本人をなんと見殺し。

本来日本でおきた事件なので日本人が裁判するはずだが、イギリスの領事裁判権を認めていたため、この裁判はイギリス領事裁判所が行った。その結果、日本人には考えられない軽い罰しか与えられなかったという事件。

これにより、

日本国内も不平等条約を改正しろって世論は

高まっているのだ。

紆余曲折あったが、

1889年、大日本帝国憲法もできたし、

そして

システマティック法則の1つ

「敵の敵は味方」

により、

イギリスが応じてくれて、

日清戦争の直前

日英通商航海条約(1894年)

により、とうとう

領事裁判権の撤廃に成功。

※なぜイギリスと仲良くなるかは、おって学習しましょう。

功労者である外務大臣がこの人。

あと、先の話になるが、ここで触れておかないと

タイミングがないので、

関税自主権を回復させた(1911年)

外務大臣も紹介。

※1911年なので、明治時代が終わる寸前。

ちょうど、関税自主権について定めた

条約の有効期限がこのころだったことと、

日露戦争の勝利等が影響した。

この2人、どっちがどっちだったか、

しっかり覚えておきましょう。

不平等条約改正にいたるまで、何が起こったのか

☆流れ

作戦1

岩倉使節団でお願い作戦(1871年)→失敗

作戦2

鹿鳴館で文化アピール大作戦《欧化政策》(1883年~)

→国内の反発で失敗

事件発生

ノルマントン号事件(1886年)

作戦3

憲法もできたので、

共通の敵をもつイギリスと仲良くなろう作戦→成功

領事裁判権を撤廃した陸奥宗光》(1894年)

関税自主権を回復した小村寿太郎》(1911年)

領事裁判権をどうしたか、関税自主権がどうなったか、そこまで注意しておく

今回は年代が前後したが、

次回からは、自由民権運動編のつづきの時代を

朝鮮に対する政策というテーマを通して

歴史をみていきましょう。