さて、いよいよ明治時代も最終章。
今回の学習は、
不平等条約改正にいたるまで、何が起こったのか
ということだ。
この前の学習で1889年に
大日本帝国憲法ができた
という学習はしたが、
今回は、このテーマのもと、
話を1880年代前半から
1890年以降まで、
時代を前後するので、ご了承を…
これまで
不平等条約の改正に向けての
最初の作戦はこうだった。
新しい国になったので、
条約改正してください。
お願いします。
岩倉使節団大作戦だ。
しかし結果は、
やーだね。
まだまだお前たち、
文明が発達してないじゃん。
といって、多くの国に相手にされなかった。
憲法作成が必要とは気づいているが、
1880年前半には、まだできていない…
では何をしたのか。
文明が発達していると思ってもらえればいい。
ほら、日本って
こんなに文明が
発展したんですよ。
これが次なる作戦。
この鹿鳴館(ろくめいかん)って館で、
毎晩のように舞踏会を開き、
外国人を接待漬けにしたのだ。
このことを中心とした
欧化政策をとることによって、
文明の発達をアピールして、
条約改正を試みたのだ。
※文明開化と勘違いしない。
欧化政策は、条約改正のための手段と思えばOK。
しかし、これには、国内から反発が起きる。
日本は日本のよさがあるのに、
なにそんな卑屈になって
猿まねしているのだ!
こんな絵まで書かれる始末…
で、国内の反発であえなく失敗…
しかしながら、
国民としても、
不平等条約をほっておけない
事件も起きている。それがこれ。
ノルマントン号事件(1886年)
和歌山県沖でイギリス船ノルマントン号が沈没。イギリス人船長は、乗客の日本人をなんと見殺し。
本来日本でおきた事件なので日本人が裁判するはずだが、イギリスの領事裁判権を認めていたため、この裁判はイギリス領事裁判所が行った。その結果、日本人には考えられない軽い罰しか与えられなかったという事件。
これにより、
日本国内も不平等条約を改正しろって世論は
高まっているのだ。
紆余曲折あったが、
1889年、大日本帝国憲法もできたし、
そして
システマティック法則の1つ
「敵の敵は味方」
により、
イギリスが応じてくれて、
日清戦争の直前
日英通商航海条約(1894年)
により、とうとう
領事裁判権の撤廃に成功。
※なぜイギリスと仲良くなるかは、おって学習しましょう。
功労者である外務大臣がこの人。
あと、先の話になるが、ここで触れておかないと
タイミングがないので、
関税自主権を回復させた(1911年)
外務大臣も紹介。
※1911年なので、明治時代が終わる寸前。
ちょうど、関税自主権について定めた
条約の有効期限がこのころだったことと、
日露戦争の勝利等が影響した。
この2人、どっちがどっちだったか、
しっかり覚えておきましょう。
不平等条約改正にいたるまで、何が起こったのか
☆流れ
作戦1
岩倉使節団でお願い作戦(1871年)→失敗
作戦2
鹿鳴館で文化アピール大作戦《欧化政策》(1883年~)
→国内の反発で失敗
事件発生
ノルマントン号事件(1886年)
作戦3
憲法もできたので、
共通の敵をもつイギリスと仲良くなろう作戦→成功
○領事裁判権を撤廃した《陸奥宗光》(1894年)
○関税自主権を回復した《小村寿太郎》(1911年)
領事裁判権をどうしたか、関税自主権がどうなったか、そこまで注意しておく
今回は年代が前後したが、
次回からは、自由民権運動編のつづきの時代を
朝鮮に対する政策というテーマを通して
歴史をみていきましょう。