改めて、日本視線に戻って、
太平洋戦争のその後をみていきましょう。
最初のうちは、
意外にも連戦連勝。
東南アジア、太平洋の島々を占拠していった。
ちなみに、当時、日本の主力の1つがこれ。
三菱が開発し、中島飛行機(今のスバル)が生産を担った
零式艦上戦闘機(零戦)だ。
※プチしすてまちっく地理
中島飛行機が群馬なので、
今でもスバルの聖地は群馬。北関東工業地域の主力生産品。
ここで転機となる戦いがおとずれる。
1942年6月のミッドウェー海戦である。
新聞を見ると日本が勝ったように見える記事だが、
実は全く違う。
報道が国に管理されているとは、こういうことだ。
どうも、すでに日本軍の暗号はアメリカ軍に筒抜けだったようだ。
待ち伏せされて、戦闘機を積んだ空母を4隻失う大惨事。
これにて一気に制空権をアメリカににぎられることとなったのだ。
ここからは、防戦一方…
次に大きいのが、
1944年7月サイパン島陥落…
これが極めて大きい…
なぜかというと、
1943年~1944年にかけて、これが世界デビューを果たす…
ボーイング社製、B29だ…
これは戦闘機でなく爆撃機
飛空高度が9000m以上だ
ということは…
零戦などでは打ち落とせないってことだ…
それが、
サイパンからだと、
爆撃のために日本まで行って、
サイパンまで帰ることができるのだ。
これにて、日本が
ちいちゃんのかげおくり(あまんきみこ著)
字のないはがき(向田邦子著)
状態になっていくのだ…
その後…
1945年3月東京大空襲、
そして沖縄戦のスタートである。
では、改めて、
なぜ、日本に原子爆弾が落とされるに至ったのか
ということである。
原子爆弾が投下されたのは、
1945年8月6日(広島)
1945年8月9日(長崎)
である。
その前に何かがあったということだ。
それは7月、
日本よ、無条件降伏しろよ
Byアメリカ、イギリス、ソ連
要は
「負けは認めるけど、植民地は残してね」
とかいう条件をつけないで降伏しろってこと。
これをポツダム宣言という。
けっきょく、これが最後通告だった。
これを無視したことで、
口実を与えてしまった…
で、
8月8日、
日ソ中立条約をやぶり、
ソ連も日本に進軍…
とうとう
1945年(昭和20年)8月15日正午
ポツダム宣言を受け入れ、
日本は降伏したのであった。
※これを昭和天皇が肉声でラジオ放送をしたということで
玉音放送といわれる。
当時、庶民は天皇の声を直に聞くことはなかった。
これにて、長らく続いた
日中戦争から続いた戦争が終わるのであった。
だから、夏の高校野球を見ていても、
8月15日正午には黙祷を捧げている
最後に、この流れを時系列でまとめておきたいと思います。
残念な話だが、この一連の流れを
並び替え問題にする出題者がけっこういる。
1日違いのものもあるので、
しっかりおさえておきましょう。
なぜ、日本に原子爆弾が落とされるに至ったのか
☆年表
①1941年12月8日 ハワイ真珠湾奇襲(東条英機内閣)
太平洋戦争突入
②1942年6月 ミッドウェー海戦にて敗戦
これがターニングポイント
③1944年7月 サイパン島陥落
→日本への空襲がはじまる
④1945年3月 東京大空襲 沖縄戦開戦
⑤1945年7月 連合国がポツダム宣言を発表する
⑥1945年8月6日 広島に原子爆弾投下
⑦1945年8月8日 日ソ中立条約を破り、ソ連参戦
このタイミングなので注意
⑧1945年8月9日 長崎に原子爆弾投下
⑨1945年8月15日 日本がポツダム宣言受諾
日中戦争以来続いた戦争状態が終結する。
☆なぜ、日本に原子爆弾が落とされるに至ったのか
1945年7月のポツダム宣言を無視していたことだろう。
これにて原子爆弾投下の口実をアメリカに与えてしまったようなものであった