あくまでとてつもなく簡単に表現したので、本来の意味とはならないことをご理解の上、
「こう考えたらすっきりする」
というくらいの感覚で読んでください。
ここで話すことは、本家の方が見ると、違うとお叱りを受ける記述もあるかもしれませんが、
ご了承お願いします。
〔ユダヤ教〕〔キリスト教〕〔イスラム教〕は一神教
そもそも、神とよばれる存在は唯一なのであろう。
ちなみに、私たち人間と思っていた存在も、次元を超えたとき、
「あれ?俺たちって、すべてが1つ(唯一の存在)だった?」
という感覚を味わう方もいらっしゃるらしいです。
その唯一の存在がいわゆる「神」と思ってしまいましょう。
すると、神という存在って、形もなにもわからないでしょう?
だから、基本的に神を像にすることってできなかったわけだし、
禁止するところもあるわけだ。
で、どこまで本当かはわからないが、
「この3つの宗教の神は、同じ存在」
ではないかという考え方もあるということである。
そう考えると、
どの宗教も「エルサレム」を大事にしている
ということとつながるでしょ。
そんでもって、唯一神が、分身の術を使って私たちになり、
自分がつくったこの世界(通称マーラ)で
「善とは何だろう?」
ってことを研究してるんだよ。
で、いちおうの答えとして出てきたのが、宗教の考え方っぽいんだよ
これを教科書の表記で書くと、
「イエスは、ユダヤ教を基にして…」
「ムハンマドは、ユダヤ教やキリスト教を基に…」
という表現になっているわけである。
出典「東京書籍:新しい社会歴史 P29」
で、例えばキリスト教だと、
「神の思し召すままに…」しているとか、
イスラム教だと
「戒律を守って…」となるのだろう。
じゃ、仏教とは?
仏教は、人間である私たちが、修行を重ねることにより、先に書いたような
「あれ?俺たちって、すべてが1つだった?」
「じゃ、何も苦しむことないじゃん!」
ということを理解することが最初の目的だったようだ。
「このことを悟りを開く」ということに便宜上しておきましょう。
「なあんだ、生きていくって、すべてを知れば、苦しくないやん。それどころか、生まれる、死ぬということも幻想(不増不減)だし、大丈夫だ(ってことを般若心経は語っている。これをまとめたのが、西遊記で有名な三蔵法師つまり玄奘ってお坊さんね。それが色即是空)」
という境地に達することだそうです。
この境地に達することが、もとの仏教の教えとして形になったものなのでしょう。
ところが、いつの日からか、
「さとりを開くことができた先人(○○如来様)にお願いすることで、助けてもらおう」
という風に様変わりしてきたようです。
だから、仏教では、さとりを開いた人や、その途中の菩薩様などなどの分だけ仏様がいらっしゃるわけだ。
で、
「南無阿弥陀仏!」と唱えれば、仏様のお力で悟りが開けるという考え方も、
いずれ生まれる。
それどころか、「仏教が私たちを守ってくれる!」となる。
実際は、これはあくまで自分の解釈かもしれないが、
どうやら「仏様は、わたしたちが仏になることを助けてくれる」存在らしい
(延暦寺のお坊さんより)。
みんな、それが死後仏様にしてくれる(成仏)というだけでなく、
なんか、現世でも様々な形でサポートしてくれているようだ。
なお、仏様っていう存在は、
さっき述べた分身した唯一神の中の1つの存在であり、
つまり、
唯一神の分身が高次元の領域にまで達した存在ってことね。
だから、
ひとりじゃなくて当然なのである。
続きは◎鎌倉新仏教の章に書いてみる。
「じゃあ、日本にはなんであんなに神さまがいるの?」
という疑問もあるでしょう。
なお、神さまは仏教でなく、神道ね
これは、仏教の話と一緒で、
唯一神の世界で高次元の流域にまで達した存在ね。
なので、もちろん
「日本の神道でいう神さま ノット=唯一の存在である神」です。
日本語で「神」としか表現できませんが、指しているものは唯一の存在の神とは別物です。
そして、私たちをお祓いしてくれるのだ。
日本でいう神さまも、もっと高い次元では、私たちと同じ唯一の存在となるらしいです。
だから、何事も心配しないで、今をがんばって生きれば、それだけでいい。
極めてアバウトだが、図にすると、以下のようになるわけだ。