前回、大正デモクラシーの風潮が広まったことを学習した。
有名なのがこの人の主張だった。
で、これを実現するために必要なことが2点
①普通選挙を実現する。
②政党内閣を作る。
(選挙で選ばれた人で内閣を作る)
ということだ。
正攻法で訴えるだけでは、
残念ながら状況は変わらない。
前回のように
憲政を惑わす大事件が起きて、
それがワイドショーのように騒がれない限り、
なかなか動かない。
では、そんなことを踏まえながら、
流れを見ていきたいのですが…
実は、もうすでに、これまでの学習の中に、
ワイドショーネタに絡んでくる事件が起きていたのである。
それがこれ。
別にシベリア出兵自体が、どうのこうのではなかったのだが…
問題はそれに関連してワイドショーネタが生まれたのだ。
これが世にいう米騒動(1918年)なのである。
悪いのは米屋なのだが、とうとう軍隊まで出動。
結局、当時の総理大臣、寺内正毅は責任をとらざるを得なくなる。
母を敵に回した代償は大きいのだ。
ここはもう、一般ピーポーの怒りをしずめることが、
元老にとっても最重要過大なわけだ。
そこで白羽の矢が立ったのが、
当時の人気者のこの人だった。
通称、平民宰相(もとは士族だが…)、
立憲政友会総裁、原敬(1918年~)だった。
この原敬は、
特権階級でもないし、選挙で選ばれている人間だ。
これ自体がレアキャラ。
一般ピーポーの期待は大きかったのだ。
で、軍部以外の大臣は、自分も含めて
選挙で勝ってる立憲政友会の人で占めたということで、
ここではじめて民主主義への道②
本格的な政党内閣を作る
が達成されたのだ。
パンピーの期待もMAXだ!
そして、いろいろ改革を行っていくのだ。
当然、
この人なら、
普通選挙を
実現させてくれる!
という期待も高まるわけだ。
………
結果発表!では、選挙権の割合の変化を見てみると…
有権者割合の変化
1889年…1.1%
1900年…2.2%
……
1919年…5.5%
ん?なんか少ないな…
結局、原敬は、
納税制限こそ基準を下げたものの、
普通選挙は認めなかったのだ。
それで、残念なやり方だったのだが、
期待を裏切った原敬は、
東京駅で刺されたのだった。
ま、原敬は平民籍だったとはいえ、元は士族だし、金もあるから、
一般人の思いとは違っていたのだろう。
普通選挙が実現するには、
もうワンクッション必要だった。
………
そんな中、1923年に思わぬできごとがおこった。
関東大震災だ。
すると、その後の総理大臣に、
様々な意義(次回の選挙管理が目的?)が当初あったらしいが、
結果として、
枢密院議長という全く選挙と関係ない総理大臣、
そして内閣も貴族院ばっかりの内閣が
できあがってしまったのだ。
これにて、反貴族院派が団結!団結した目的が、とうとう
貴族院内閣を倒そうぜ!
選挙に勝ったら、
普通選挙をやってやる!
もう、選挙の争点が、
普通選挙をやるかやらないかの選挙になってしまった。
この動きが、
第二次護憲運動
と呼ばれている。
ここで、加藤高明らは、選挙で圧勝。
総理大臣に認めざるをえない。
かくして、加藤高明内閣ができ、
1925年
普通選挙法が制定されるに至ったのだ。
普通選挙法(1925年)
満25歳以上のすべての男子に選挙権。
残念ながら、女性に選挙権はナシ。
※この時代に女性に普通選挙権があった
ドイツのワイマール憲法は画期的だったのだ。
そして、これ以降、
選挙で勝った政党から内閣が作られる(政党内閣)という
今では当たり前のこと[憲政の常道]が
しばらくだが続くこととなったのである。
※先にネタバレすると、終わるのはこの人の時ね。
話せばわかる…
話を戻すが、
このように、とうとう、普通選挙、政党内閣を常道にした加藤高明であったが、
1つだけゆるしてないものがあるのは、
セットでしっかりおさえておく。
チョーシにのって、
天皇制を否定して、
新しい国をつくろうとする
ことは許さん。
どんな人か、おぼえてるかな、天皇制を否定して、革命を起こそうとしていた人たち…
共産主義者
(社会主義者)
アウトー!
共産主義者から天皇制を守るってことで
治安維持法(1925年)
である。
共産主義の政治結社を作るだけで
下手すりゃ死刑になるのだから、
やりすぎな時代だったのである。
さて、次回は、政治に関係なく、
大正デモクラシーの風潮が社会に与えた影響を
確認しておきたいと思います。
では、今回はこれにて!
大正時代、どのような経緯で、民主主義を実現していったのか
☆経緯1
①ロシア革命(1917年)によりシベリア出兵(1918年)を行おうとした。
②それを嗅ぎつけた商人が米を買い占めてもうけようとした。
③これに国民の怒りが爆発し、米屋を襲った[米騒動(1918年)]。
④人気者の原敬を首相にして、政党内閣を組閣し、怒りを収めようとしたことにより、最初の本格的な政党内閣が誕生。
☆経緯2
①貴族院内閣が誕生した。
②選挙で、打倒貴族院内閣、普通選挙実際が争点となり、選挙が行われる。
↑第二次護憲運動
③上記の公約を掲げた加藤高明らが選挙に勝つ。
④普通選挙法(1925年)を制定する。
そのかわり、
治安維持法(1925年)も制定する。
☆結果
○これ以降、1932年まで、選挙で勝った政党から総理大臣が生まれ、内閣を組織するという、憲政の常道ってよばれる状態が続いた。